大日堂舞楽・伝承
だんぶり長者伝説
昔、正直者の夫婦が、小豆沢に住んでいました。その夫は、の生まれで、婦は村生まれでした。ある年の元日の夢に神様が表れて「我は大日神なり。天にありては日読の命なり。(中略)お前たちは、川上をさかのぼり、広い場所で田畑を切り拓き有徳の者となりなさい」と告げられました。
同じ夢を見た夫婦は、土壇を築き木の串に紙を挟んだ物を立て、供え物をして、神様をお祀りしてから、お告げのあった場所に移り住み、田畑を開墾した。耕作の後、昼寝をしていた夫の鼻にとんぼが止まり、何度か尾を鼻の中に入れて飛び去った。妻は、その様子を見て不思議に思い、目の覚めた夫に話すと「今、銘酒を飲んだ心地がして、お前にも飲ませようとして目が覚めた」と語ったので、そのトンボの後を訪ねると岩間の泉から清水が湧いていました。それは、でした。飲むと健康になり、病を癒し、寿命が延びると言う評判が広がりました。これを求める大勢の人が集まり、夫婦は宝物で満ち溢れるほどになり、朝夕の飯米のとぎ汁は、川下まで白く流れて米白川と呼ばれるようになりました。
夫婦は、有徳の長者となったものの四十歳をすぎても子供に恵まれなかったので、四十八の土壇を築き、毎日大日神に祈り続けた所、女の子が授かりました。やがて長者夫婦は、この娘を連れて都へ上り、に長者の印を賜ることになりました。内裏に招かれただんぶり長者の娘は、そのまま留め置かれました。長者の夫婦は、長者の印などを頂戴して故郷に帰りました。
娘は、宮仕えをして継体天皇の妃となり、吉祥姫と名を改めて五番目の皇子をお産みになりました。長者夫婦は、やがて寿命が尽き、醴泉もただの水になってしまいました。吉祥姫は、故郷の父母の信仰した大日神により栄えた後を後世に残したいとの願を天皇に申し上げました。継体天皇の十七年に小豆沢に大日神を祀る社が建立されました。
とんぼの事をこの地方の方言で「だんぶり」と言ったのでだんぶり長者と呼ばれる様になったそうです。
その後、吉祥姫の亡骸は、小豆沢に移されて現在の吉祥院の地に埋葬されました。その時の杖が、公孫樹の大木となり昭和五十年代まで墓印とされていました。
また、継体天皇の第五皇子は、母を慕って小豆沢に来て高山に登り、帰らなかったと伝えられます。その山を五の宮山(五の宮嶽)と呼ぶようになり、後に社を建てお祀りする様になりました。